日本統治時代に樺太とよばれたこの地には、1945年8月の日本敗戦時約35万人の日本人と2万~4万3千人の(諸説あるが正確な人数は把握されていない)朝鮮人が取り残されていた。戦後ソ連領となったこの地から日本人の多くは引き揚げたが、朝鮮人たちとその配偶者である日本人は、その後数十年にわたりこの地を離れる事はかなわなかった。
1996年3月。私は、未だ混乱の続くロシアを写真家として最初の仕事にしたいと思い旅していた。その途上での出会いがサハリンとの始まりだった。
青く凍えた街の辻にろうそくが灯っている。木でこしらえた枠にはビニールが張られ、そのなかでは生花がろうそくの炎に照らされかろうじて息をしていた。傍らには凍えた顔のおばあさんが座っている。
当時、ユジノサハリンスクのバザール(市場)や街で花を売る朝鮮人のおばあさんたちの姿があった。私が日本から来たとわかると、厳しい生活の様子を日本の言葉で話してくれた。路上での短いやりとりを交わしただけでも、彼女たちの背景に日本が大きくかかわったことが色濃く感じられて、私は漠然としながらも鋭利な後ろめたさを感じずにはいられなかった。だからだろうか、彼女たちの心に触れる事ができればと願った。
私は街をうろつき、彼女たちの前に立つのだが、気持ちがこわばってしまい言葉が出てこなかった。なぜ彼女たちはこの地に残らざるをえなかったのか。それを知る事なしでは、彼女たちと正面から向き合う自信が持てなかった。あのとき私は一歩も踏み込めずにサハリンを後にした。それだけに今でも忘れられない出来事を思い出す。
街を歩いている時の事だった。思いがけず日本の言葉がきこえてきた。私の前を歩く二人のおばあさんが話しているようだった。
「日本の方ですか?」それまでの旅の心細さに、私は思わず声をかけた。
「いいえ、私たちは戦争の前にここへ来た朝鮮人です」
戦後から50年、この地で日本の言葉が日常的に使われている事に驚いた。それは単に話せる事とは違う何か、その後何度も繰り返される問いの始まりとなった。
歴史が記憶の堆積物ならば、降り積もり埋もれてしまう前に、単純に割り切ることのできない思いを抱え生きる姿に今なら向き合えるのではないかと動き出したのは、あれから14年後の2010年の事だった。